北条氏康 内閣総理大臣の来店
うちの店の常連北条氏康さんが新しく内閣総理大臣になった。一人で月に2,3回来て飲んで食べて金を遣ってくれる上客と言っても良い。偉い人にも関わらず、自分は「氏康さん」を縮めて「ウジヤッさん」などと呼んでいるが、笑いながら「はいはい」と相手をしてくれる気さくさも持っている。
無学な自分なりに有力な政治家であることは知っていたものの、そのやっさんが内閣総理大臣であるというのはあまりにかけ離れていることのように思えた。しばらくは忙しくて店に来られることもないだろうと思っていたが、記者会見が終わった某日、やや深い時間に予約されて来店されたのである。
日本酒には自信がある
「いや、突然予約を入れさせてもらって申し訳なかったね。予約を入れるのはこれで…3回目くらいか。普段はひとりぶらりだから。」
相変わらずの気の遣いようだと思いながら、
「この度はおめでとうございます。まさか、ウジヤッさん…北条さんが首相とは…」
「ウジヤスでいいよ。想像もできなかった…かな?」
「いや、想像くらいはしましたが、本当になるとは」
本音が出る。ウジヤッさんと警護担当の二人を奥のテーブル席に案内しながら話しかける。
「就任会見拝見しました。この店でみるウジヤッさんとなんか違いますね。」
「そうかな?でもあれ、内心 早く終われー って思ってたから。」
顔を見合わせてしばし笑う。
「食事はされてきましたか?」
「ああ、自分は少し食べてきた。が、この二人は何も食べてないんだ。仕事中なので酒は駄目だろうが、なにかお腹の足しになるようなものでもないかな?」
「では、おでんって訳に行かないでしょうからおむすびでも握ってお出ししましょう。ウジヤッさんはお飲みで…」
「もちろん飲む。日本酒を、銘柄は任せる。」
「承知」
日本酒は天青にする。別の常連さんが開店10周年に贈ってくれた、ウジヤッさんお気に入りの江戸切子のグラスを木枡に立てて1合分になるようにグラスからこぼして注ぐ。
「それではいただくよ。」
と言いながらそのまま口を寄せて一口すっと飲む。
「天青です。」
「北条の地元だ、流石、わかってらっしゃる。天青の元になっているのが 雨過ぎて雲の破れるところ天青し っていう言葉から来てるの知ってる?」
「いえ、存じませんでした。でも、爽快な感じはよく分かりますね。」
「小田原は太平洋側の雨の多いところだけど日照時間も長い。ざっと降って、さっと晴れる瞬間の青空のことだよね。今の私の心境でもあるな。」
相槌をうち、一旦話を引き取って
「おつまみお出しします。しばしお待ちを」
と声がけして板前に戻る。
おでん屋だけどつまみも自信あり
おつまみには腹案がある。小田原産のかまぼことさつま揚げ。かまぼこは板わさ、さつま揚げは軽く炙ってこれも一口大に切って2品を一緒盛りに。おつまみに普段はあしらいは付けないが、大根のケンに大葉に穂ジソ、生わさびを鮫肌で念入りにすったものを脇に添える。刺し身の態。皿を出しながらウジヤッさんに声を掛ける。
「おまたせしました、おつまみ…です。これは気づきませんで、次のお酒何にしましょう?」
「おいしいので、あっという間に飲んでしまっていた。日本酒をおまかせでもう一杯。」
とお酒をご注文いただきながら、おつまみを一口。納得の表情に安心しつつ、お酒を切子に注ぐ。そのお酒を見ながら
「安東水軍か。安東氏というのは非常に古くからの名家だね。続けば良いというものでもないが続くには能力と強かさが必要だ。私はどうかな?」
「大変な仕事ですからまずはお体一番で」
と答えながら酒を注ぐのも妙なものではある。話は変わって、
「機会が来たら頭殴って気を失わせて縄で結んででも逃さないようにしないと駄目だってこの切子のネエさんに言われてたんだよ。」
「そんな、乱暴して怪我させたり死んだりしたら元も子もないじゃないですか。」
「同じことを言った。そしたら…本物はそんな簡単に死なないから…ってね。」
「殴ったんですか?」
「ははっ、どうかな。強引に引き留めたことは間違いないね。結果こうなった。それは良かったけど、これが終わりではなく始まりだということが大事だ…」
独り言になってきたウジヤッさんに軽く会釈をしながら
「それではごゆっくり、御用がありましたらお声かけてください。」
と板場に戻る。平静を装ってはいるが内心、
「北条氏康内閣総理大臣だよ総理大臣!ウチの店の格、超上がるよねっ!でも、自慢するわけには行かないのか…隠れ家コンセプトだからなー。でも、すごいって、いやマジ。隠れた名店の名店主ヒロシってーーー。」
そう思いながら板場で隠れて一服するヒロシだった。
内閣総理大臣 北条氏康 完
この物語はもちろんフィクションです。