おもしろきこともなき世を面白く(中)

前稿の「戦」は世にいう第二次長州征伐、長州で言うところの四境戦争である。その名の通り、幕府や幕府寄りの各藩が、長州の四境(大島口、芸州口、小倉口、石州口)から侵攻してくるという長州の難局である。

晋作は当初大島口の幕府艦隊と対峙し、奪われていた周防大島を奪還。その後に小倉口にまわった。数的に圧倒的に不利な長州奇兵隊、報国隊であったが最新式の装備と機動力を生かして旧弊な幕府軍、諸藩軍を押しまくった。小倉城近くまで攻め入ったが近代装備を持つ肥後細川家の軍勢に一旦勢いを止められた。

事態は意外な形で動いた。七月二十日、将軍徳川家茂が二十一歳の若さで死んだのである。十日ほど経って、この死が伝わると幕府側に味方していた肥後細川の軍勢を含め、多くの九州諸藩は兵を引き、あろうことか幕府軍総督小笠原長行は海路戦線を離脱した。八月一日には小倉藩は小倉城に火を放ち南に移動、香春に藩体制を立て直した。ここに至り戦の大勢はきまった。

小倉藩敗退は福岡藩にも大きな動揺を与え、その隙をついて晋作は望東尼を姫島から脱出させた。元々福岡藩の藩士でありながら奇兵隊に加わっていた藤茂親を望東尼がいる姫島に差し向けたのである。脱出後は勤皇の志の篤い下関の豪商白石正一郎を頼った。晋作も長州に引き上げた。その際に小倉城に放置されていた大太鼓を持って帰ったのは晋作らしい。この太鼓は戦の前に晋作が勝利を祈願した下関の厳島神社に奉納され現在も見ることが出来る

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太鼓と共に凱旋し、望東尼を下関に迎え奇兵隊員の後の世話をするなど戦後処理を進めていた晋作だが、戦とその後の過労はその体を蝕んだ。寒さが募るにつれ、体力は見る間に落ちて、太鼓の厳島神社にほど近い、桜山で病身を養うことになった。望東尼は姫島のころ食が極端に細くなり体は衰弱気味であったが、下関に移ってから若干体力を回復した。晋作を看病するために桜山に詰める日も少なくなかった。晋作と数年来同道しているおうのと望東尼は通ずるものがあったものか二人して世話をする日が続いたが、晋作の病は篤くなるばかりであった。

咳が止まらず大汗をかく日が増え年を越すのも危ぶまれたが、やや小康を得て年が明けた。勿論、一人では歩くことは出来なかったが、布団の上に座って話す様子は何年か前と変わりないように見えた。そんなある日、晋作が白湯を所望した。お持ちいたしましたの声と同時に入ってきたのは普段身の回りを見ているおうのではなく、望東尼であった。
「もと殿か。おうのは。」
「居りますが、雅どのに代わっていただこうかと。」
「なぜ。」
「東行殿、女子に好かれますれば、雅どのも気が揉めるかと。お世話いたしますれば少しは和らごうかと。」
「そういったものか。家の事まで考えてくれたか。気を遣わせるな。」
晋作は軽く頭を下げた。望東尼は目でそれを制しつつ言った。
「お加減は。」
「今日は気分が良いな。今どきは土佐侯が薩摩長州に遅れじと幕府に色々と言っているのだろうな。私が動けるなら即座に黙らせてやるところだが。」
「またそのようなご無理を。今しばしお体、養いませんと。」
「やっとこの日の本の国が動き出したのだ、見ているだけでは焦れる。」
面白きこともなき世におもしろく でございますよ。」
すみなすものは心 か。」
晋作はやや感に堪えたような顔で望東尼に聞いた。
「もと殿はそこに至られたか。」
「私など、子供は早く死に、夫に先立たれ髪を下したもの。なかなか面白くとはいかぬものです。至らぬこその」
の望東尼の言葉を受けて。
「歌か。その通りだな。」
と晋作は応えて少し疲れたものか布団に入り横になった。この日から病はやや篤く、起きていても汗をかいて意識が途切れがちになる日が多くなった。

おもしろきこともなき世を面白く(下)に続く

この物語はフィクションです