おもしろきこともなき世を面白く(下)

春も盛りが過ぎ初夏を思わせる明るい日の下で、息は苦し気ながらも久々に明瞭な意識をもって両親を呼ぶように雅に言った。

病床に駆け付けた両親、雅、そして望東尼を前に話し始めた。
「父上、母上申し訳ございません。長くはないようです。」
母のミチは泣き崩れたが、父の小忠太は無念を滲ませながらもしっかりした声で
「病なればやむなき事。雅と梅之進のことは父があずかろう。」
「有難うございます、父上にお任せできるなら安心でございます。しっかり仕込んでやってください。」
晋作は雅に向き直り、謹厳に言った。両親の前ではあくまでも長州藩士なのである。
「雅、父上母上への孝行を忘れるな。お前も梅之進と共に学を身につけるがよい。これからの世はおなごにも学が要ろう。」
「かしこまりました。お言葉心して過ごします。」
「おうのの事はすまぬ。あまりきつくしてくれるな。」
「私には梅之進が居りますゆえ。」
と雅は武家の妻らしく答えた。いよいよ息が苦しくなってきたか、晋作の額には汗が浮かんでいる。望東尼はその汗を拭いた。
「もと殿、これまでのことお礼申す。」
「礼などと。お陰様で面白うなった日の本の国を見られるのは、こちらこそお礼を申し上げなければ。」
晋作は目を閉じて
「身体さえままなれば、なお面白くするものを…。
おもしろきこともなきよに おもしろく すみなすものは こころなりけり
よ…」
と最後はかすれながらも口にした。しばらく都都逸らしきものを口ずさんでいるようであったが言葉としては聞き取れなかった。やがてそれもやみ、周りの人々にもしやと思わせたがこの時は眠っただけであった。

この後、しばらく命を長らえたがはっきりとした意識が戻ることはなく三日後の慶応三年四月十四日に息を引き取った。享年二十九年の人生であった。

・・・

晋作が死んだあと望東尼は防府に移った。東上する薩長軍の勝利を願って断食を行い、それがたたり初雪のころ十一月望東尼も死んだ。断食が祟り死んだというのが一般的だが著者としては元々の病があったのではないかと考え本稿ではそのように書いた。辞世は次の通り。
雲水の ながれまとひて花の穂の 初雪とわれふりて消ゆなり
硬骨の勤皇家というよりも一人の時代を生き抜いた女性としての歌である。望東尼の人生を鑑みるに「ながれまとひて」に全ての重心があるように思える。

時系列で言えば十月半ばに大政奉還の奏上と勅許があった。「おもしろきこと」があったともいえるが、望東尼がその死までにその事実を知る機会があったかどうかは定かではない。そのあたりの事情は辞世からも一切伺うことはできない。

小忠太は廃藩置県まで長州藩の重役として重責を担った。廃藩置県で引退し、七十八歳まで長命した。晋作の遺言通り小忠太の教育熱は孫、梅之進に注がれ明治十年には一家で東京に移っている。雅も東京に移り、梅之進(後の東一)を育て孫にも恵まれしばし穏やかな日々を送った。

しかし雅の晩年はやや寂しかった。東一がやや若い四十八歳で先立ち、四人の孫の内三人は早逝した。晋作の死後五十年後雑誌の取材に応じ晋作の印象を語っている。「東行とは共にいた時間が少なく、早くなくなったので多くの事は覚えていない」と語りつつも閉門されていた時の様子や死の前の病床でイライラしている様子などを克明に語っている。望東尼のことも少なからず語っており、晋作が亡くなった時に望東尼が棺に入れて葬ってくれと頼まれた短冊を手放しかねて未だに持っていることを語っている。その望東尼の短冊の歌

おくつきの もとにわがみはとどまれど わかれていぬる 君をしぞおもふ 望東

雅はこの歌を見ると昔のことが昨日の様に思われると語ったと記事には残る。まるで恋歌であるが雅、書いた望東尼、これほどまでに思われた晋作のそれぞれの心中は計り知れない。

おもしろきこともなき世を面白く 了

おもしろきこともなき世を面白く(上)へ

この物語はフィクションです。